昭和四十六年十二月十四日 朝の御理解
X御理解 第二十一節 「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というの じゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし カンテラに油いっぱいあっても、芯なければ火がともらず。 火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」 教祖金光大神がこの世に出現された。この世に出られたという事は、この二十一節から頂きますと、どうでも世界を光明世界にしたいと願われる天地金乃神の御意志がね、金光大神の御出現といってよいと思います。天地金乃神様が世の中を本当の光明世界、その為にこの世に御出現になっと、ですからそこのところを私共がたいしてですね、いかなければならん。だから私共が実際は、この世の中というものは、天地の親神様のおかげで、お恵みでいっぱいなのです。
その御恵みの世界をですね、私共が御恵みを御恵みとして、受けきらず、まあ、御恵みを御恵みとして表し得ず、難儀苦労しております。
私はこの二十一節は、立教神伝をたいしてみるとそこのところ、よくわかってくると思うです。いわゆる立教神伝の御精神と申しましょうかね、天地金乃神様が金光大神に、天地金乃神を助けてくれとおっしゃっておられます、ね。
立教神伝の中に、教祖金光大神にどうぞ、しかもよくお話し、しかも死んだと思うてと天地金乃神を助けてくれと、その天地金乃神を助けてくれという。その内容なんですね。それは此方のように実意丁寧に神信心しておる氏子が、純粋なしかも実意丁寧な、信心をなさっておられるその教祖金光大神に向かって、お前のように実意丁寧な神信心をしておる氏子でなからなければね、世の中にはなんぼうも難儀な氏子が居る。その難儀な氏子を取次助けてやってくれる事が出来ない。どうか助けてやってくれというておられるという事なんです。
天地金乃神を助けてくれという事は、その難儀な氏子が取次助けられるその事がです、天地金乃神を助ける事になる。天地金乃神が助かる事になる。天地金乃神を助けてくれとこうおっしゃる。ならば、天地金乃神を助ける事はどういう事かと申しますと、普通の者では出来ませんという事。誰彼は出来んという事。お前のように純一無雑といおうか、純粋ないわゆる実意丁寧、神信心をなさっておられる、教祖でなければ出来ん。金光大神でなからなければ出来ん。もう、お前が厭というなら仕方がない もう他の者に頼もうといったようなわけにはいけんと、そういう言わば大変な事なんですね。成程教祖金光大神を通して現れた、例えばこの御教えというものがです、成程お釈迦様でも出来んであろう、キリストでも出来んであろうという事がわかります。教祖金光大神でなければ出来ない。だから教祖金光大神は、世界の大宗教といわわれる宗教がいろいろありますが、まあ大宗教、小さい宗教もありますが、そのどれをもってしても、本当の助かりにはならない。これは此方のように実意丁寧神信心している氏子でなければこれが出来ん。
例えていうとキリスト教のように難行苦行なさっただけではいけない、お釈迦様のようにそれこそ、それこそ哲理に富された頭脳明晰なそれだけではできない。その純粋無雑さというものが教祖の命であった。生命であった。実意丁寧神信心している氏子とはそういう事。だから教祖の場合は理屈がない。だからいうならば、或る意味に於いての難行苦行とか、理屈という事ではない。只、素直に素直に御神意をたいしただけである。神様の教え通りにつかまつられたわけです。まげてとられません。その純粋無雑なですね、教祖様の御信心でなからなければです、天地金乃神様の心をたいして又、天地金乃神様を御助け申す事は出来ない。
ならその助かりとはどういう事であろうか、その助かり方とはどういうような助かり方を教祖は人間氏子に示されたであろうか。又助かってきたであろうかという事になる。御理解三節にあります。理解申して聞かせて、末々まで繁昌いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたすと。その前にこのたび金光大神をつかわし、願う氏子におかげを授けとある。そして理解申して聞かせとある。
この度と、もうこのチャンスを逃したら、またとこのような人がこの世の中に現れるとは思われないという程しのお方なんですね。教祖金光大神おいう方とは。
だからこの度です、生神金光大神を差し向けて、世界の救済というか、世界の光明をはかられる。天地の親神様の意図というのはね、意図、お心というものが、どういうふうに現れてきたかというと先ず、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせてという事になった。
だから願う氏子にはおかげを授けて下さるという。助かりでは神様の助かりにならんのです。お願いをしてから、こういうおかげを頂きましたと、ここ四、五日だけでも無い命を助かったという人が何人もあります。もう今日は難しかろうといったような病人が、お願いに見えたその日を境に助かっていきよる。だから願う氏子におかげを授けて下さったわけですよ。だから、そういう願う氏子におかげを授けるという、おかげでは天地金乃神様が助けて下さったのですよ。願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせてとこう、その理解がね、金光大神の理解が素晴らしかったというのです。なら、私が二十五年間この教え一つに取り組ませて頂いて、皆さんに聞いて頂いておる程しに素晴らしかった。いわゆる、釈迦もキリストも説き得なかった、説ける筈がない。金光大神でなからなければ、天地金乃神様がこのくらいぞっこん打ち込んで惚れ込んで、釈迦にもキリストにも教えていなかった事にも例えて言うたらね、金光大神には指示されたわけなんです。それがこの教典なんです。
ところがその教典が平易なようであって、あまりにも難しい、その証拠に私が二十五年間説いてるけれども、まだ説きあかしていないでしょう。そして今、説いておるその事がです、もうそれこそびっくりするような内容が、次々とこのように表されてきたわけです。そういう御神意、御神慮があるとはね。今まで金光教百十年になる中に教祖のそういう深い御信心とういうものを、金光様の御信心を頂とる者すらがわかっていなかった。それを私はまあ、合楽で皆さんに聞いて頂いておるとこう思います 理解を受けて私共が助かるという助かり方は、どういう事かというとです、昨日、十三日会の中でもお話いたしましたように、本当に信心とは尊いものだなあ、有難いものだなあという事は、神様が尊いのでもおかげが尊いのでもない、有難いのでもない。自分自身が尊くなれんるんだ、有難いから有難く、尊くなってくるのだという事を申しましたね。それなんです。教祖金光大神様はです、とにかく人間氏子が有難い尊いものなんだ、大体は。けれども自分の我情我欲がです、有難いものでも尊いものでもない事にして、日々、不平不満の日々を過ごしておるという事がです、神様の御悲しみであったという事。この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんぞと、さあ、これから一つ喜びの稽古をさして貰う信心とは、偉くなったのでも賢うなる為でもない。有難とうして頂く稽古だという事になった。そこで有難くなる為には、こういう道があるぞ、こういう信心があるぞと説かれたわけなんです。そこんところの極意を生神というのです。
此方の事を生神、生神というが、此方がおかげの受けはじめ、皆もこのようなおかげが受けられるというのだ。生神とはここに神が生まれるという事であって有難いなあ、尊いものだなあと思うと、そこに生神が誕生したわけです。
そういう心、そういう家庭、そういう社会ですね、何と有難い社会であろうかという事がです、日々それを体認させてもらう、自分の体でそれを認めていく、体験していく。そういう生活を願われてからの事であったという事。
立教神伝がそう、だから二十一節を頂くと一ぺん立教神伝を体しての御精神というものを頂いて、この二十一節を頂きますとそういう有難い事になってくる。
信心なければ世界は闇なりという。ですから金光教以外の信心があっても、世界が明るくなるという意味ではつながらない。金光大神の信心を頂いてはじめて、世界が明るうなる。それは例えば過去のね、宗教法というものを私共は勉強しとらんけんわからんけれどもね、いわゆる宗教史はそうなのです。広い世界にあっておる戦争の根本は、やはり宗教が原因なんです。だから宗教戦争といわれる所為はそこにあるのです。おかしいでしょう。宗教が元で殺し合わねばならぬなんて、おかしいでしょう。 キリスト教史を見てみるというならば、殺し合いにはじまって、殺し合いに終わるような、仏教だって同じですよ。現在のインドとパキスタンの戦争にしても、やはり宗教戦争というのだからそうなんです。いわゆる金光大神が打ち向かうものには負けて時節を待てよとおっしゃるものでは大変な事ですね。打ち向かうものには負けて時節に任せよというのは、もうたったそれだけで表現しておられますけど、それはもう本当に恐れ入ってしまうばかりですよ。教祖の御言葉の一言、一言は死ぬる事のさびしさ、悲しさね、生きていくよりと今日はそんな事を頂いた。
私共は信心のまだ、そこまで到達していませんから、いうなら死ぬる事をあの世に誕生する事であるというのですから、実をいうたら御祝いなんだ、赤飯炊いて喜ばんならんくらいの事じゃけれども、私共はまだそこまで到達出来ていない。死ぬる事はさみしい事だけではない、他人が死んだと聞いただけでもさみしい。自分が死ななけりゃならんというなら、どんなに怖い、哀しい事であろうかと思う。死ぬるという事を思うだけでも、ですからそれ程しの事がですね、今日、只今、生きておるという事実からいうてもです、実をいうたら喜ばにゃおられんのであり、喜ばなければ相すまんのである。その生きておる事に不平不足をいうたり、悔やみ悲しむという事は生きておるという事実をです、もう一切の後悔というものはなくなる程しのもの、だからその事をひっくり返して見たら生きる喜びというものがはっきりしてきたわけです。 死ぬるという事がそんなにかなしい事なら死ぬるという事がそんなにさびしい事ならば、もう私共の心が賑やかに生きておる事に対してもっと賑やかな、朗らかな、さびしさの反対ですよ。かなしさの反対は喜びが謳歌されなければならない。
生きておるという事実だけでも、それが、あれが足りない、これがああだというていうならば、そういう大変な喜びとする内容を頂きながら、喜び得ていないとする内容がです、心が真っ暗なのだからですよ。そして心を清めるという事、信心は日々の改まり第一。信心とは本心の玉を磨くものぞやと教えられる。本気で磨く事改まる事にならなければね、信心とは有難い尊い事だなあとなってこない。なら、信心とは有難い尊いとは、わが心自身がね、自体が尊い、有難いものになってくるのです。
そこにね天地金乃神様が助かって下さる、天地金乃神様助けてくれと、立教神伝にある事を難儀な氏子あり、取次助けやってくれと、おっしゃる。氏子を助けてやってくれとおっしゃる事はです、そのまま、天地金乃神の助かりにつながっておるのだとならその氏子の助かりというのは、御理解三節の中にあります。願う氏子におかげを授けというおかげを授けてくださるから頂いたという。それだけでは助かりにはならないというのです。だから、そこまでもし、助かったというおかげであったらね、いつも親鸞上人様を引き合いに出して相済まんですけども、親鸞上人様がおっしゃる雑宗難行というのは仕方がない、低級だというわけです。
そこから取次を受けて、理解申して聞かせてとおっしゃるからその理解そのものを頂かねば出来ん。
昨日、秋永先生が筑水連合会の会合に、ここの代表として行かれました。十三日会ですから、そして甘木の平田さんのその話だけを聞いて帰って来られた。その話の中にです、ある人が、ある人じゃない皆が甘木は、御理解によって助かるといわれておる。事実いわれてとります。まあ、その時の対象として久留米がいつも引き合いに出されるわけですけれども、久留米はそうは言わなかったわけですね。本当に御理解というものは沢山残っていないというように、只、信心辛抱といったようなものがね、こうして生き生きとして、残っておるけれども、石橋先生という方は大して御理解してはいないわけです。なさっておったでしょうけれども残っていないわけです。という位の程度であった。
ところが甘木の場合には、もう、お参りさせて頂いて、お初穂をお供えさせて頂いたら、絶対御理解を頂かなければ御神米を渡しなさらんやらんそうだから、ですから途中から帰るなら御神米を頂かずに帰らんならんから、ここの大きな長い玉串【】が置いてあってその中に御神米が【 】祈に包んだのがいっぱい。私共一回お参りすると不思議でたまらじゃった。何じゃろうかと思うた。ところがみんな御神米、朝の御祈念にこうやってお参りされる、一生懸命御理解を説かれる、けれども余り御理解が長いものじゃけん、帰るわけですみんな。お供えだけして。又本当におかげ頂かんならん時にはその御理解を聞く事が条件。御神米はこちらにちゃんと握ってござる。そして向こうがわかったという顔をしなけれは、御理解を止めなさられじゃったというわけです。ですから成程、御理解によって助かった事といえん事はないけれども、ある時、甘木の親先生に甘木の御理解力によって、甘木関係の人が助かっておると申し上げたら、それこそ親先生はね、それこそ、カラカラと笑われたというわけです。私はそれを聞かせて貰ってからもう本当に、私でもそうだと思いますよ。実際は合楽はもう御理解から御理解に明け暮れるわけですけども、だから有難いわけですけども、それが本当の親鸞が助かったといわれる、言う意味に於いての助かりなら助かりますよ、心が開けてきたのですから。天地の道理がわかっただけでも、天地の御恩徳がわからして頂いただけでも、それは有難いですけれども、本当の助かりは、安武松太郎師の祈りにあるとおっしゃったそうですね。いう事は安武松太郎しの信心にあるとおっしゃったそうです。人が助かるという事は、御理解じゃない。けれどもそういう意味で助かると同時に、本当の事がわからせて頂いて、心が安らいだ生活が出来るという事は、だから、病気が治った、ああだったという事は、安武松太郎先生の御徳によって助かった。ですからそこんところがですね、願う氏子に授けて下さるところの力とそれに理解申して聞かせてという事によって、その二つが相俟っていった。そして相俟っていく事の助かりがです、そういう助かりは氏子の本当の意味に於いての助かりであり、そういう助かりを以て、天地金乃神の助かりを増すわけです。
病気が治っただけでもいかんというて、理解を聞いて、いわゆる物知りになって、それはそうだ、ああだと理屈がわかって、心が安らいでおるようであっても、それは本当の安らぎという事にはなっていない。それによって神様がわかるかもしれない、神様を信じる事がわかるかもしれない、けれども神様から信じられるという生き方を教祖金光大神は身をもって教えられた。
そこんところが信心とは本心の玉を磨くものであり、日々の改まりが第一とおっしゃったのはそこなのです。
二十一節、いわゆる立教神伝のその心というものを、たいして頂くと、今日皆さんに聞いて頂いたような事になるのです。そこで、まあ、実際にですね、私共がもっともっと、有難い喜びを思うてみなければいけない、【 】なければいけない事はです死ぬる事のさびしさ、悲しさがもし哀しいと思うたり悲しいと思うなら現にこうしてピンピン生きておるという事なのです。いわゆる私が、私共がもっと朗らかな、寂しさの反対は、朗らかな、賑やかな、悲しさの反対は、喜びでしょう。
生きておる今日もおかげを頂いて、生きておりますという事に対してです、もっと深い深い御礼と喜びとが表されなければならないという事をね、一つ思うて見て下さい。今日はそこんところをほんなごつ聞かせて貰えば、元気で生きておると、生きておるとね皆さんがですよ、死ぬる事も寂しくもなからなけれは、いわゆる何というか死、生の安心を得ておるならばです、哀しい事をなければ、悲しい事もない。そこまでの信心を頂いておるならば、いざしらず、けれどもないならば死にたくない、死ぬ事は悲しい、他人が死んだと聞いてもさみしい。その反対の生きておるという事の、いうならば、ああ、あなたも今日は生きちゃったとこう、例えばいうわけなのです。 そこにです、夫婦か親子がです、祝福しあうという生き方なのです。ああ、今日もあなたまだ生きとんなさった、お互い生きておったと生きておる事の喜びをです、喜び合う、祝福し合う、私は生き方、そうい生き方がです私は光明世界につながると思うのです。
先日参って来た夫婦の仲の悪い事が、その悲しみですね、今までそれこそ泣き顔見せた事もない、泣いた事もないという婦人がわんわん声をあげて泣いたという話じゃったが、それこそそれはね、ああたが女らしさがないから、色気がないから御主人が次から次、あなたが知らん内に女をつくってござったいというても、いや先生私は、あげな親父の顔は見ろうごとでんなかとこういうて、そんなら他に女が出来たっちゃ仕方なかたいのというたごたる感じですよ。
同じ家の中にあってです、もう親父の顔は見ろうごとでんなか、【】やるくてです今私がいう今日もあなたは生きておられた、お互いが生きておる事を喜び合うというね生き方。それが今日私が死ぬる事が、悲しいならば寂しいならばですよ、その反対の事を思うて、本当に生きておる事を喜び合わなければおられないです本当に。
そこんところをおろそかにして、他のところの不平不足不満、まだ、おかげが頂き足らんごと思うとるような信心では、いつまでたっても本当の光明世界に住む事は出来ないと私は思う。
どういうそこに難儀があっても、けれどもまだ生きておるというその事実だけでもです、そういう喜び合える。それに祝福し合うどころかおかげであの人の顔は見ろうごとないですね世界であっては、これはもう暗黒の世界です。
ならば、その事実はどうかというとです、神様のそれこそカンテラの中に油がいっぱいあっても、芯がなけれは灯がともらんとおっしゃるように、この世の中には、天地の親神様の神愛で満ち溢れておる。その満ち溢れておる神愛の中におっても今、私が申します、芯がなかったらです、灯がともらんのです。その芯になるところがです生きておるという事の事実に感謝する事だと私は今日は、そこんところをそのような頂き方として頂きたいと思います。
どうぞ。